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刑事弁護委員会定例研修会 人はなぜ記憶を誤るのか・刑事弁護に必要な心理学の基礎(後編)

後編 全2回

厳島

飯塚事件について

(1)事件の概要

この事件は福岡県の飯塚市で起こりました。1992年2月20日の朝、2女児が小学校に登校する途中で誘拐され、その後殺害されたというものです。
翌日の昼、団体職員の男性が小用を足すために車から降りたところ、2女児の遺体を発見しました。場所は、甘木市と嘉穂郡を結ぶ国道322号線という山の中の道です。
2月25日には、被害者と同区に住む久間さんに警察が事情聴取します。実はこの事件の前に未解決の誘拐事件があり、その子供が最後に立ち寄ったのが、この久間さんの家でした。警察はその事件のこともあって久間さんに事情聴取したものと思われますが、前の事件に関しては、久間さんにはアリバイもあり、その子が違うところへ行ったことも目撃されているので、関連はないはずです。

3月20日に、久間さんは重要参考人として取調べを受けます。ポリグラフ検査の実施、毛髪と指紋の提供をしました。1994年9月23日、女児の衣服に付いていた繊維が、久間さんの車のシートのものと一致したとして逮捕されます。10月14日には殺人で再逮捕され、福岡地検は死体遺棄で起訴、11月5日には略取誘拐で追起訴という経緯をたどりました。

一審の福岡地裁は、1999年9月29日、複数の 状況証拠から死刑判決を宣告しました。私は、控訴審の福岡高裁で第1鑑定を提出し、法廷証言も行いました。後で述べる犯人の車と人物を目撃したとする人物の供述の心理学的鑑定でした。しかし、控訴審も2001年10月10日、一審判決を維持しました。上告審の最高裁第2小法廷は、2006年9月8日、上告を棄却しました。
死刑執行が2008年10月28日で、朝日新聞によれば「刑が確定してから約2年という異例の早さ」とのことです。死刑執行後、奥様が地裁に再審請求をしました。

(2)再審請求審の判断

目撃者Tは、「不審車両を目撃した翌日にラジオのニュースで事件を知り、その遺体が山中に遺棄されたこと、そこが不審車両を目撃した場所の付近であったことを聞き知り、車両について同僚に話した」というようなことを言っています。再審請求審の福岡地裁は、T の供述に関して、「このような会話により、目撃車両が女児殺害と関係の可能性ありと強く印象付けられ、目撃の記憶を喚起、定着させた」、つまり、非常に強く印象に残ったので、目撃証言は信用できると判断しました。

最初にこれを読んだときに、私はおかしいなと思いました。目撃以前に何か知っていて、注意して見なくてはというのなら分かります。しかし、何かを目撃した後に同僚に話したからといって、前のことをよく思い返すなどということはあり得ないからです。
福岡地裁は、「目撃者はダブルタイヤ仕様の車の存在やその特徴について、不審車両の目撃前から知っていた。目撃者は警察に対して迎合的な傾向があるとは言えず、Tの供述のうち、少なくとも確定判決が信用性を肯定している紺色、ダブルタイヤのワンボックス車を目撃したという点は、警察官による誘導で供述したとは考えられない」と言っています。

また後で述べますが、目撃者の目撃条件は極めて劣悪だったことがわかっています。そういう条件での目撃であったことを心にとめなくてはなりません。
心理学では、Tのような条件での目撃が正確であるというような法則も事実も聞いたことがありません。再審請求棄却の判断は全く科学的根拠がなく、ただ警察や検察の主張する内容をそのまま踏襲した、極めて危険な判断と言わざるを得ません。そのように判断できる証拠をこれから示したいと思います。

(3)4通の鑑定書の概要

私は飯塚事件で4通の鑑定書を提出しています。3通は実験を行ったもので、1通は理論編といったところです。

①第1鑑定

第1鑑定は、控訴審の福岡高裁に対して、2001年5月4日に提出したもので、法廷証言も行いました。そもそも、目撃者が目撃した場所はカーブになっていて、下り坂です。直線部分もありますが非常に短く、すぐにまた急カーブがあります。目撃車両は、そのような急カーブの対向車線側に止まっていました。Tは 運転していて左に曲がる角で、対向車線に止 まっている車と人を目撃したと言っています。

目撃から2週間後の3月9日、極めて詳細な供 述調書が出てきました。第1鑑定は、実際にT が供述するような内容が報告できるのかどう かということの心理学鑑定です。ポイントは、その車の後輪がダブルタイヤだということが分かるかどうかでした。

この点について、再審請求で捜査メモが出てきて分かったのですが、最初にTが警察官に話した際には、ダブルタイヤだとは言っていませんでした。ところが、その後に、久間さんの車を調べた警察官が調書をつくり、事情聴取をしてから、ダブルタイヤのことが供述に出てきたという経緯があります。

Tは運転しながら目撃したというので、第1 鑑定では、運転中に車や人物のことをどれほど覚えていられるかという実験をしました。

久間さんが事件当時乗っていたマツダのボンゴという車は、実験当時は既にないといわれました。そこで、仕方なく、トヨタのハイエースという、ボンゴより少し大型のワンボックスカーを用意しました。ハイエースの後輪はダブルタイヤではないので、久間さんのいとこさんが古タイヤを切り、後輪横にはめてダブルタイヤに見えるような仕掛けをして実験しました。実験には45名が参加し、Tが通ったルートを運転し、Tが見た場所に車輪を置いて実験しました。目撃から2週間後、45名の目撃者に目撃内容についてのインタビューを行いましたが、誰も後輪のダブルタイヤについて想起できませんでした。しかし、高裁の裁判官は、本物のダブルタイヤではないからだめだと判断しました。

また、Tが目撃した日は対向車両がほとんどなかったのですが、私たちが実験を行った日は、ちょうどサクラが咲くころで、普段滅多に車が通らないところに花見客の車がたくさん来てしまっており、裁判官はそれが記憶できない理由だと判断しました。
これら2つの指摘により、第1鑑定は信用性に欠けるとして却下されました。第1鑑定の詳細は後ほど説明します。

②第2鑑定

その後、弁護団がマツダのボンゴを見つけ出し、しかも実際に目撃された2月の平日に再度実験を行いました。高裁の指摘を弾劾することが目的です。参加者は30名でした。往来する車もほとんどないという条件下で実験ができました。結果は、第1鑑定と同じく、誰もダブルタイヤを想起できませんでした。これが第2鑑定です。

③第3鑑定

2回の実験を合わせて75名のドライバーに目撃してもらったのですが、誰一人として後輪が ダブルタイヤとは言えませんでした。「車が止ま っていますから、注意して見てください」と事 前に言ってもだめでした。なぜ75名全員が言え ないのか気になり、それを説明する考え方があ るのではないかと思って調べた結果、2つの面 白い現象が海外の研究で報告されていることを 突き止め、それをまとめて鑑定書にしたのが第 3鑑定です。内容については後ほど説明します。

④第4鑑定

第4鑑定は、第3鑑定書で述べた理論に基づいて、実際に眼球運動を調べたものです。目の動き、視線を解析することで、実際に海外の研究で報告されているようなことが起こるのかどうかを確認する鑑定です。それらの詳細は後ほど説明します。

(4)Tの供述内容

①Tの供述の経過

Tは、事件当日(1992年2月20日)の午前11 時ごろに目撃したとされています。森林組合に勤めており、普段からその道を通ることがあったそうで、事件の翌日午後6時ごろ、ラジオのニュースで事件を知ったとされています。Tは、八丁峠から車で5分ほどのカーブの所 に紺色のワゴン車が駐車していて、雑木林から男が出てきたのを目撃したと同僚に話しています。自分にも小学校1年生の子がいるから事件に関心があった、だからよく覚えていると言っています。
これは既に指摘したように、時間が逆行しているので怪しい説明ですが。
調書には、3月2日に刑事が事務所に来たので、この話をしたと書かれています。

しかし、再審請求の段階で裁判所が証拠開示を命じ、開示された中に3点ほど警察のメモが入っており、それが実は3月4日であったことが分かりました。
3月2日の時点でTが何と言っていたかというと、「山頂付近に紺色のワゴン車が止まっていて、人が乗り降りしていました」という、それだけです。当時、警察は躍起になって捜査しているので、もしもTが多くのことを知っていれば、そんなに簡単に帰すはずがなく、もっとたくさんの情報を得ようとしたはずです。しかも、後にTが目撃したと言うようになる現場は、山頂から5分ぐらい車に乗らなければ行けない場所です。つまり、山頂付近で見たというのは表現としておかしいのです。

3月4日に刑事を車に乗せ、紺色のボンゴが駐車していたところに案内したとのことですが、最初に私たちがもらったのは、3月9日の調書だけです。ですから、この辺のものは再審請求が開始されてからの話であり、それには少し事情があります。

3月9日に員面調書が出て、4月23日にTは面割りをしていますが、久間さんについては、
「瞬間的に見ていただけであるから、よく分からない」と言っていました。ところが不思議なことに、3月9日の員面調書では髪の毛が長かったとあり、久間さんの髪はオールバックで短いにもかかわらず、久間さん犯人説が維持されてしまうわけです。5月29日に実況見分調書が出てきて、12月7日に検面調書が出ました。彼は平成8年9月に法廷証言を行いました。

③人物の目撃内容

Tがなぜ車を目撃したかという動機について、「私はこんなカーブのところに車を駐車して迷惑だなと思い」という供述があります。しかし、私も何回も現場に行って車を運転していますが、ほとんど対向車両がありませんし、止め方から見て、余り迷惑という感じは受けませんでした。

②目撃の動機

人物の目撃内容としては、「車に向かって右側の雑木林から出てきて、私の車の方を見るや、慌てたようで前かがみに滑ったようでした。雑木林から出てきた男は私がその車の横を通り過ぎ、右側後方から見たところ、ワゴン車の横に立ち、車の反対の方、つまり私に背を向けて立っていました」という供述でした。これによれば、Tは、車の斜め前、横、後ろから見たことになりますが、実際には、それはできないはずです。

容姿について、「頭の前の方がはげていたようで、髪は長めで分けていたと思うし、上着は毛糸みたいで、胸はボタンで留める式の薄茶色のチョッキで、チョッキの下は白のカッター長袖シャツを着ておりました。...年齢は30~ 40歳ぐらいと思います」という供述です。

④車について

車についても非常に詳しく供述しており、「車両番号は分かりませんが、普通の標準タイプのワゴン車でメーカーはトヨタや日産ではない」と。このように、否定形から入るのは、取調官から何か聞かされているからだと考えられます。我々は無いものは言いません。こういうところに、取調官とTとの間に何かやりとりがあった痕跡が残っています。
続けて、「やや古い型の車で色は紺色、車体にはラインが入っていなかったと思いますし、確か後部タイヤはダブルタイヤでした。更にタイヤのホイールキャップの中に黒いラインがありました」となっています。ホイールキャップは見えないはずですがそれが見えたと言うのです。実は、警察官が車の反対側のホイールキャップのことをここで言わせてしまっていることが後で分かります。

また、「車の窓ガラスは黒く、車内は見えなかったように思います。ガラスにフィルムを貼っていたのではないかと思います」となっています。
車種について、日産やトヨタでないという のは、どこが他社の車と違うのかが分かっていて言う言い方です。つまり、マツダだということが分かっていないと、こういう言い方はできないはずなのに、マツダであることは知らないと言っています。
車種について、日産やトヨタでないという のは、どこが他社の車と違うのかが分かっていて言う言い方です。つまり、マツダだということが分かっていないと、こういう言い方はできないはずなのに、マツダであることは知らないと言っています。

「このように、駐車していた紺色のボンゴや、雑木林から出てきた男について確信はできませんが、もしかしたら見れば分かるかもしれません」と、識別前の員面調書に書かれています。

(5)心理学からみた問題点

①目撃場所の同定の困難さ

目撃現場付近は、同じようなカーブがずっと連続します。私は何回行っても分からなくて、カーブミラーに振ってある番号で識別していました。

調書によれば、Tは最初、場所が分からず3 回往復したと言います。でも、ここだと思いましたと。その場所がなぜか遺留品が捨ててあるところでした。わざわざ最後に、「刑事たちに聞いたりしませんでした、自分で分かりました」と書いてありました。

②目撃時間の短さ

Tは、時速25キロから30キロで、軽四輪のマニュアル車に乗って下り坂を降りていきました。もし道路などを見ないで、その対象だけを見ていた場合でも、8秒間ぐらいしか見られません。しかし、そのような運転は危険でできません。実際はもっと短いということが後の実験で分かりますが、その程度です。

③車の見方の不自然さ

車の前方、横、後ろからも目撃したということですが、本当にそれは可能かということです。

④供述のスタイルの問題

前述のとおり、Tの供述では「車体にはラインが入っていなかった」となっています。実は、ボンゴは新車で買うと車体にきれいなラインが横に入っています。久間さんはボンゴを中古で買っていますが、ラインが嫌いで取っており、久間さんの車にはラインがないのです。そこで、車のラインはなかったということを報告させているわけです。

よくできた(?)供述調書ですが、なんとも奇妙で問題が多いものです。そこで弁護団としては、問題点を科学的に検討するために再現実験をしようということになりました。

(6)第1鑑定(第1次再現実験)

①実験の流れ

45名の参加者に、八丁峠から甘木市方面に下るルートを国道322号と県道66号の交差するところまで、軽四輪自動車で走行してもらいました。実験の目的は伝えていません。運転した後、いろいろ質問しますと伝えておきました。久間さんのいとこさんが目撃される役を演じてくれ、タウンエースを実際の目的現場とされる場所に止めました。彼には、実際にTが供述するような動きを再現してもらいました。
Tは翌日に同僚に話しているというので、実 験の参加者を翌日ホテルに呼んで、簡単なインタビューをしました。さらに2週間後、ちょうど調書ができる少し前ぐらいの時期に、今度は、「あなたが運転したとき、対向車線に止まっていた車と人についてお話しください」と、詳しく聴取しました。

②実験の結果

実験では、面白いことが分かりました。人に注目した参加者は、人のことは少し語りますが、車のことは語れません。反対に、車に注目した参加者は、車については語りますが、人については語れません。Tのように、人と車の両方をあれほど詳細に語った参加者は1人もいませんでした。車の後輪のダブルタイヤについても、出てくることは全くありませんでした。車も人も見ているはずなのに、「そんな車は止まっていませんでした」と言う人までいます。これは不思議でした。報告できたとしても誤りが多い。詳細は報告されない。とにかく誤った報告が多いということです。ということは、Tの証言は、私たちの能力の限界を超えているということです。

鑑定書では、最も想起の優れた4名を詳細に紹介しました。参加者の中で最も詳細な供述をした方は、「車はタウンエースかスターエース、ナンバーは352、色はガンメタ、車の中は見えなかった、前輪は見えた、特に特徴なし、車のボディーの特徴は変なところはなかった」と語っています。前輪は見えたが、後輪は見えていないというわけです。更に、別の方は、「車のタイプはジープ型(これは間違いです)、前はダブル、人は残っていなかった、前輪は見えない、後輪は見えた」と語っています。もっとも、後輪は見えたと言っていますが、特徴に関しては言及していません。また別の方は、「車のタイプはたぶんバン、色は白(これは間違いです)、人が乗っている様子はなかった、前輪は見えたが特徴なし、後輪については見えなかった、ボディーの特徴はない、車の窓ガラスは色付きだった」と語っています。

③福岡高裁の判断

前述のように、高裁は、実験における記憶成績が悪いのは花見のシーズンで対向車両が多かったこと、目撃のための車が同じでなく不自然だったことを指摘し、鑑定を却下しました。

(7)第2鑑定(第2次再現実験)

第2鑑定は、福岡高裁の2つの指摘さえ押さえればいいということで、本物のボンゴを使用し、実験の時期を2月の平日にして行いました。第2次実験では、参加者に対し、はっきりいろいろなことを聞きました。例えば、後輪は見えたか、見えなかったか、覚えていないか、などです。後輪が見えたと報告する者は2 名だけでした。その2名に対し、どんなに繰り返し尋ねても形状までは出てきませんでした。いろいろなことを言ってくれますが、全て違っていました。結局、この程度の供述しか出てこないということだと思います。

結論として、75名もの参加者が正しく報告できないということは、記憶の起源、Tの供述の起源が目撃のところにあるのではないということです。どこか別のところから仕入れてこなければ、そんな供述はできないということを鑑定書に書きました。

(8)カーブ運転での眼球運動の特徴

私は、なぜ75名もの人が報告できないのかということに、すごく関心を奪われて、いろいろな文献を探しました。その結果、『Nature』(ネイチャー)という有名な科学雑誌に、Land & Lee(ランド&リー)という2人の研究者が、1994年にカーブ運転時の眼球運動を調べた論文*1を掲載しているのを見つけました。タンジェント・ポイント・モデルと言いますが、カーブを運転するときには非常に特徴的な眼球の運動が起こることを報告しています。
どういうことかというと、曲がる方向の、例えば運転して左に曲がるときには道路の左端の一番出ているところを追い掛けていく、それと同時に車のハンドルも回していくという報告です。彼らは、一般道路のカーブの多い一方通行の道を何回も走らせて、そういうデータを出してきました。

図1

彼らが参加者から集めた2名(M.L.とJ.C.) のデータがあります( 図1 )。
2つのグラフ中の上(M.L.)の少しデコボコがあるものが眼球の動く角度(凝視角)、これの近くにスムーズに描かれているのが車の向く角度(操舵角)です。カーブが来ると、そちらを見つめて、また戻して、またカーブが来てという、このカーブの連続のときに目がどう動いているのかが分かります。また、下の曲線はハンドルの切り方についてのデータです。実は、目の動きにハンドルの動きも同期します。左に曲がろうとすれば左にハンドルを切るし、見るのも左の方を向いている様子が非常によく見て取れます。下のグラフ(J.C.)はもう1人のデータですが、やはり同パターンが見てとれます。

また、実際に眼球のポイントはどこに集まるかというと、 図2 a から、真っすぐ走っているときは中心に集まっていますが(aの中段の図)、カーブにさしかかったとき、まさにカーブの端点に視点が集中するということが分かります(aの上段と下段の図)。
bの下段の図の折れ線グラフから分かるとおり、曲がる約3秒前からそこを見始めます。そして、タンジェントポイント付近で最も時間が多く費やされることが示されています( 図2 b 下)。そうすると、飯塚事件では、曲がる方向と逆のところに止まっている車と人を見なければいけないわけですが、そちらを見るというのは極めて難しい。Tは、真っすぐのところで少し右側を見たかもしれませんが、カーブにかかると右側の反対車線にあるものにはほとんど目が行かないはずです。人間の目は1秒間に3回、サッケード(飛翔運動)という動きをします。
これは意図的に起こすのではなく、自動的に起こってしまい、我々の注意の視点が1秒間に3回ぐらい動いてしまいます。だからといって、車や人の方に視点が行かないということはありませんが、意識的に操作する場合には、左に行かなければ事故を起こしてしまいます。
したがって、Tが言ったように、対象の車や人を前から見て、横から見て、後ろから見るなどということはできないと鑑定書にはっきりと書きました。しかし、先日の再審棄却の決定で、裁判官はこの研究は海外の研究なので、日本では通用しないという趣旨の判断をしました。

図2

(9)第3鑑定

もう1つ、チェンジブラインドネス(Change blindness)という非常に有用な論文があり、こ れも第3鑑定書に入れました。私たちの日常の知覚で私たちが見ているのは、非常に完成された知覚世界です。しかしながら私たちは、短時間ではなかなかうまく外界をとらえられません。
このことは変化盲と呼ばれる現象によって示すことができます。私たちは同じようなシーンを見せられて、あるものが消えていたり、付加されたりしてもそのような変化に気付きません。そのぐらい私たちの視知覚は鈍感なのです。例えば、運転のシミュレーターを使ってオーストラリアの研究者が行った実験があります。この実験は、真っすぐの道を走っていて、横にあるベンチなどを取ってしまいます。そのときに何が変わったかに関しては、実はいろいろな仕掛けがありますが、最も良い成績で60 %、ベンチやボールの検出率は10%程度と低く、変化の検出能力は高くないと言わざるを得ません。最近の研究では、人間が入れ替わっても分からないので、目撃証言の誤りの中に、変化盲が介在している場合があるのではないかと言われ始めています。
ところで、法廷でのTの証言では、次のようなやりとりがなされました。

【弁護人】振り返って見たということですよね。

【T】はい。

【弁護人】それは、車を通り過ぎて、ずっと振り返って見ていたのですか。

【T】そうですね。そのときはまだスピードを緩めていたと思いますから。こういうふうに。

【弁護人】振り返りながらカーブを曲がったのですか。

【T】そうですね。

【弁護人】ずっと見ておられたと。

【T】ずっとというか、ずっとは見ていられませんでしたけれども。

【弁護人】一瞬振り返ったということではないのですか。

【T】はい。一瞬ではないですね。

【弁護人】かなり後ろを振り向いていたということですか。

【T】はい。

【弁護人】10ぐらいの特徴を言われたんですよ。

【T】はい。

【弁護人】その間、わずか10秒弱の時間に、それぐらい、一瞬で覚えられたのですか。

【T】そうですね。分かります。

【弁護人】全部分かったのですか。

【T】はい。

何ともすごい証言です。今から思えば、いろいろな理論や実験的事実を知らなければ、うのみにしてしまうかもしれません。

(10)第4鑑定(視点の測定と解析)

第4鑑定では、ランド&リーの論文のとおり、タンジェントポイントに視線が行くかどうかを調べました。実際に、眼球運動を測定する装置(視線解析装置ともいう)を使用して、9名のドライバー(プロの運転手4名を含む)で、カーブ運転においてどのような視線行動が見られるのかを検証しました。これは名古屋大学の北神慎司先生と一緒に実施した共同鑑定です。

実験では、nac社製のアイカメラを使用しました。眼球運動を記録する装置です。
車が見えてからカーブを通過するまでの視線の停留した場所の割合を示す結果は、「車両」17 %、「人物」6 %、「TP・左レーン」30 %、「TP以外・道路」36%、「その他」11%という割合でした。
また、視線が停留していた合計平均秒数は、「車両」で1.18秒 、「人物」で0.43秒程度でした。これらの数値からも、参加者全体として、この区間では車両や人物が見える位置にあるにもかかわらず、車両や人物に余り視線が向けられないことが明らかとなりました。
更に車のどこの部分を見るかも明らかになっています。車輪を見る時間は、右前輪は平均0.11秒、右後輪は平均0.12秒でした。しかし、こんなに短い時間だと、詳細な情報は知覚できない水準です。

(11)現在の視覚科学が教えること

最後に、視覚科学のお話です。メアリー・ポッターというマサチューセッツ工科大学(MIT)の有名な女性の研究者が、非常に短い時間停止する実験を1970年代からずっと重ねています。彼女の論文によれば、0.2秒、0.3 秒の一瞥では、あまりにも短すぎて、後にそれが何か想起できないということです。彼女の使っている"刺激"は車か何かの程度なので、詳細までは聞きません。なぜかというと、それ以上の詳細が分からないからです。せいぜいそれが何かと同定でき、車だったとして、その車が残るのに0.2秒、0.3秒の一瞥だと、後でそれは記憶から消えてしまうと。
ですから、どう考えても、Tの目撃条件では、車の特徴の詳細などは記憶に残らない条件だったのです。つまり、もし見たとしても、おそらく75名の実験参加者と同じレベルだったのでしょう。先ほどもお話ししたように、彼が最初の調査メモで言っている、「山頂付近で紺色のワゴン車が止まっているのを見た。乗り降りしている人物を見た」という程度の記憶のはずです。

(12)終わりに

思い入れが強い事件なので、長めにお話ししました。心理学者は真実を明らかにするために、あらゆる努力を惜しまないと思います。ただし、心理学者といえども何でも知っているわけではなく、いろいろ試行錯誤しながら取り組んでいます。たぶん弁護士の先生からの強い働き掛けが心理学者を動かすのだと思います。ですから、あきらめず、どうにかならないかと言い続けることがとても大事ではないかと思います。