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弁護士の魅力を語る~久保利英明先生~

総会屋との闘い。正義のために体を張って

防弾チョッキを着ながら総会屋と対峙した逸話や、様々な業務分野の開拓などで有名な久保利弁護士に、若かりしころのお話しや弁護士の魅力についてお話しを伺いました

久保利英明先生 【編集部】弁護士になろうと思ったきっかけは何でしょうか。
【久保利】中学・高校の頃から、僕は会社や役所といった大組織で務まる人物ではないと自覚していたことと、当時から正義感が強く、学校当局や人とぶつかったり、忖度しなかったりという性格は、多分弁護士に向いているなと思っていました。母からも「あんたは口が立つから弁護士になったらどうだい」と言われ、「じゃあ、なろうか」と。

【編集部】新人の頃のお話を伺いたいのですが、当時の森綜合法律事務所(現在の森・濱田松本法律事務所)は、まだ小さかったですよね。
【久保利】僕が入って3ヶ月で事務所トップの森良作が亡くなってしまい、残ったのは福田、古曳、本林という3人の若手で、当時、まだ8、9年目ぐらいでした。生意気ですが、一緒に事務所をつくっていこうという感じでした。
森綜合って、当時から議論の大好きな事務所で、合議では、侃々諤々、喧嘩のようになって、向かい側の事務所から「もう喧嘩はその辺でやめたらどうですか」と注意されたくらいです(一同笑)。先輩からは、「口頭弁論というのは、ただ行って書面の陳述で終わるんじゃなく、ちゃんと準備して行って、一言で主張できるようにしろ」、「法廷で裁判所や相手方が言うことに、『ふうーん』なんて言っているのは準備が足りない、合議が足りない証拠だ、すぐ反駁しろ」なんて怒られましてね。
当時の森綜合は、依頼者も大して多くなく、その中に上場企業も1、2社あったかなという程度。決してビジネスロー中心の事務所というわけではなく、収入の多くは、更生事件などの倒産事件によるものでしたが、バラエティに富んだ事件を自由にやらせてもらいました。

【編集部】若いうちのご苦労はありましたか。
【久保利】苦労はたくさんしましたが、嫌だと思ったことは一度もないですね。苦労すればするほど、道が開けてくるのがこの仕事だと思います。
弁護士になって最初に担当した釧路地裁の牧場の事件は、国相手に広大な土地の取得時効を主張した事件でした。相手方は国ですから、ベテラン弁護士と訟務検事など総勢20名くらい。対して僕は新米で、一人で裁判所に行っていました。
たった一人ですがその分身軽ですから、北海道中で調査をしました。例えば、国有地の付与図面を北海道庁の地下倉庫で発見したり、近隣の牧場主に開墾前から牧場になるまでの経緯を聞いて回ったり、古図面を探して釧路の図書館に籠っていた際、釧路の市史を見つけ、天皇陛下が行幸中に車窓から依頼者の牧場の中で放たれた鶴を御覧になったという記述を見つけたり。苦労はしましたが、だんだんと道は開けていきました。この事件では、一審は全面勝訴し、控訴審で良い和解をすることができました。

【編集部】様々な分野の専門家として活躍されていますが、そういう専門性をどのようにして身に付けられたのでしょうか。
【久保利】事件を徹底的にやると、その専門家にならざるを得ないのです。例えば、僕が3年目ぐらいのときに、友人の紹介で吉田拓郎や井上陽水の事件を担当していたのですが、彼らがフォーライフ・レコードを設立し、僕に監査役になってもらいたいと。そうすると、知財、著作権というのを勉強しなければいけない。アーティストがいて、プロダクションがあって、レコード会社があって、どういう権利関係になるのか。当時は印税のこともろくに知らなかったので、一所懸命クライアントに聞きながら勉強しました。目の前にクライアントがいて困っているわけだから、これを助けなければというところからスタートしたのです。
倒産法については、元々、倒産弁護士でしたから、破産法と会社更生法については、先輩たちがじっくり教えてくれました。
会社法については、当時、会社法弁護士というものはほとんどいなかった。1981年の商法改正で総会屋に対する利益供与が禁止されることになり、そこから改正法を勉強し始めました。1年後には、企業にアドバイスするだけでなく、講演会もやり始めました。何法でも基本は民法ですね。

【編集部】私(編集長)は46期ですが、私たちの世代には、株主総会の一括上程・一括審議方式、いわゆる久保利方式というのは、大変衝撃的でした。
【久保利】その頃は、総会屋が約8,000人いて、その人たちが企業からお金を取っていて、トータル金額が約1,000億円。当時、弁護士が1万人ぐらいで、企業法務や法人事件でもらった金額が約1,000億円と言われていました。一人当たりにすると総会屋の方が利益率が高いと(一同笑)。
そこで、僕は株主総会を弁護士の仕事にしようと思い、新メソッドを開発して、できるだけ大勢の弁護士さんに加わってもらいたいという気持ちで、それを本やビデオにして、会社法研究会を作ったりもしました。

【編集部】人生の転機というのは、どこにあったのでしょうか。
【久保利】弁護士になる前にアフリカに行ったことが大きな転機でした。命を懸けて何かしたこともない、世界の常識も全く弁えていない、そんな自分が司法試験に受かったからといって24、5歳で弁護士になっていいのだろうかと思い、修習を1年遅らせて23歳のとき旅に出ました。

久保利英明先生 久保利英明先生

【編集部】アフリカへ行くのに、まず船で旧ソ連のナホトカに行き、ヨーロッパを経由したんですよね。
【久保利】ええ。お金もなかったので、できるだけ安い方法で行きたかったのですが、1期遅れの修習に入るための健康診断が10月にありましたので、帰国日は決まっていました。ナホトカからハバロフスクに鉄道で移動してモスクワまで飛行機で飛び、そこから、また鉄道で移動しました。ヨーロッパでは、ユーレイルパスというヨーロッパの鉄道全てに乗れる安い切符で移動し、ホテル代を節約するために夜行列車に乗っていました。ソ連からギリシャまでは、鉄道とフェリーで移動しました。

【編集部】アフリカに行ったらどうするつもりだったのですか。
【久保利】ギリシャからエジプトへは船で渡り、そこから先は、行った先で現地の人と同じ交通手段で動くしかない。エジプトのルクソールからスーダンまでは、30人乗りぐらいのオンボロの外輪船の船底で雑魚寝し、スーダンに入国したら列車があるので安い切符で乗り、エチオピアに入るときは、戦争で国境は飛行機で越えるしかない。また、エチオピアのエリトリアでは解放紛争があり、政府と分離主義者が内戦をしていました。そういうのを見ながら、目的地はタンザニア、南アフリカ解放闘争を主導するANC※1に日本製の短波ラジオを渡すという自分なりのミッションがありました。

※1:アフリカ民族会議(African National Congress)。南アフリカの人種隔離政策の撤廃を求めた現地の黒人たちの組織。後に同国初の黒人大統領となるネルソン・マンデラ氏が若きリーダーの一人だったが、久保利先生の渡航当時は投獄されていた。

【編集部】かなり危険な目にも遭われたのですよね。
【久保利】3度死にかけました。カイロのバスって乗るものじゃなくて、外にぶら下がるものなのです。中は満員。そのうち腕がしびれて、ナイル川の巨大な太鼓橋の下りをコロコロ転がり、後ろの車が何台もかわしてくれて、僕はひかれずに済んだ。次は、エチオピアでの下痢。三日三晩、トイレから立ち上がれませんでした。コレラでなくて幸いでした。3度目は、ケニアのナショナルパークの柵外で、寝袋で寝ていたところ、すぐ近くで地面が揺れるようなライオンの咆哮がとどろきました。僕は、「ヤバい!柵の外側じゃなかったのか」とブルブル震えて、とにかく、歌を歌い、缶をたたいて、一晩過ごしました。結局姿は見えませんでしたが、いやぁ、怖かったですよ。

【編集部】よく生きていましたね。
【久保利】自分も死ぬ思いをしながら、ANCにラジオを届け、戦っている人たちにたくさん会い、色々な話をしました。お互い頑張ろうと言っていた人が、次の日に死んでいたこともありました。彼らは、自分の国をつくるために命懸けで戦っていたのです。僕は、アフリカに行って、「正しいことをやって死ぬのは、仕方ない」と悟り、3度死に損なって、「命懸けで正義のために戦う弁護士になる」という気持ちが芽生えました。だから後年、防弾チョッキを着て総会屋と対峙したときも、余りビクビクしなかったのかもしれません。

【編集部】すごいです...。そんな体験を経てなった弁護士の魅力は、どういうところにありますか。
【久保利】色々な魅力があることです。僕が探した魅力をお話しましたが、他にも色々な魅力があって、どれでも自分で好きなように選べるのです。誰かに言われてやらされるのではなく、そのどれを選んでみても必ず世の中の正義の総量を増やしていく。弁護士というのは、そういう仕事なのです。また、何歳になっても、体力と気力と頭脳があればできる仕事です。これは人生100年時代に最もふさわしい仕事ではないかと思います。しかも、最強のプロフェッション資格ですから、それは弁護士になりたいと思う人がごまんと来て当然だと思っています。
にもかかわらず、ロースクールがうまく行かないとか、法学部の希望者が少ないとか、この国は何を考えてんだろうかと...。

【編集部】弁護士会は、プロモーションが下手ですよね。
【久保利】弁護士になっても食えねえ食えねえって...。実際食えるんですよ。僕は、就職というのは、弁護士になるかならないかが就職活動で、どこの事務所に入ったかではない、良い事務所だと思ったら、一緒にやればいいし、つまらないと思ったら辞めりゃいいと。問題は、自分が本当に惚れた仕事をやれているか、やれていないかということです。
仮にもうからなかったとしても、世の中の役に立つ。誰かの役に立つというのは、人生で一番の生きがいですよね。自分がそういう人生を追い求めるのかどうかというだけです。お金は時の運で、もうかったらロースクールに寄付すればいいんだから(一同笑)。

【編集部】そんな先生がこれからやってみたいことは。
【久保利】日本を司法大国にしなければいけない。司法が強くない近代国家などないんです。司法を強くするには、一定の質を持った人数が必要と考え、二弁の協力で創った大宮ロースクールは、弁護士教員が過半数でした。65歳のときに、この国の政治や行政が駄目なのは、1票の価値が同一ではないからだと考え、この1人1票の訴訟を、升永先生、伊藤先生と3人で始めました。これも日本を司法国家にしたい、そのためには司法が「これは違憲だ」、「選挙無効だ」と言ってくれなければいけないので、こちらはいまだに頑張っています。

【編集部】ワーク・ライフ・バランスについてどうお考えですか。
【久保利】良く遊ぶことが良い仕事につながっていく、一所懸命学んで仕事をすることが、面白い遊びにつながっていく。これは、相乗効果があるはずだと。僕は、ワーク・ライフ・シナジーという考えで、両方面白いと思っています。

【編集部】先生は、若いうちから、たっぷりお休みも取られていたのですよね。
【久保利】土日は働きましたが、長期の休みを取るのは、弁護士にとっては、度胸がいりますよね。「休みです」と言っても、「何とかならないか」と。だから、私は、机に「久保利は死にました」と看板を立てて、いなくなっちゃうんです(一同笑)。今もそうしているのですが、周りからは、縁起でもないからやめてくださいって言われるんだけどね(一同笑)。

【編集部】若いうちにやっておいた方がよいのは、どんなことでしょうか。
【久保利】何でもやって御覧なさいということですね。弁護士というのは、何をやってもそれがそのまま自分の力になっていくと思います。だから専門家になるにはどうしたらよいかと聞かれたら、その職に就いてみたらどうですかと。自分が関心を持って、面白いと思うことをやってみたらと。ある程度の域に到達すれば見えてくるものがあります。もうだいたい究めたと思ったら、違うことをやればいい。
ただ、一つだけ忘れないでほしいのは、弁護士には、虐げられた人々に寄り添うメンタリティが絶対に必要だということです。弁護士には3つのY(優しい心、柔らかい頭、勇気)が必要です。

【編集部】これから法曹を志そうと思っている方に一言。
【久保利】いくらお金をもうけても、名誉を得ても、人の役に立たなければ意味がないですよね。一人の人を救う一人の人間、それが弁護士だと思います。あなたは、それを志せますか?僕は、是非、みんなに目指してほしいな。