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山椿

弁護士斎藤隆夫
「一体支那事変はどうなるものであるのか、いつ済むのであるのか、いつまで続くものであるか。国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者はおそらく一人もいないであろうと思います。」

1940年( 昭和15年)2月2日に、斎藤隆夫が帝国議会で行った「支那事変処理に関する質問演説」の一節です。この演説は「反軍演説」と言われていますが、演説の矛先は2年半以上に亘り泥漿下にある日中戦争を引き起こし、戦争終結の見通しすら立てられない政府に対するものです。演説の内容は、政府に対して聖戦の美名に隠れないで戦争目的を明確化させること及び戦争終結のために国民政府(蒋介石)を交渉相手とすることを求めたものです。斎藤演説は、戦争目的もなく、戦争終結のプログラムもないままに、ただやみくもに戦争を継続している政府を痛烈に批判したものです。

ところが、この斎藤演説について、軍部は「聖戦の目的を侮辱し、10万の英霊を冒涜する非国民的演説だ」として懲罰委員会にかけさせました。言論の自由こそが議会の砦であるにもかかわらず、あろうことか、衆議院は1940 年( 昭和15年)3月7日、斎藤の除名を可決(賛成307 名、 反対7名、 棄権144名、欠席10名)したのです。斎藤の除名により、衆議院は自ら議会制度を投げ捨て、「自殺」してしまったのです。

除名された斎藤隆夫は2年後の1942年(昭和17年)7月に行われた翼賛選挙に、兵庫5区から非翼賛候補者として立候補し、最高位(19,743 票)で当選しました。日本のデモクラシーは一矢を報いたのです。

斎藤隆夫は、1870年(明治3年)兵庫県に生まれ、1891年(明治24年)に東京 専門学校(早稲田大学)入学、1894年(明治27年)に 東京専門学校を首席で卒業、弁護士試験に合格し弁護士登録しました。弁護士法が制定されたのは1893年(明治26 年)ですから、弁護士制度が開始し、東京弁護士会が設立された翌年に登録したことになります。

斎藤隆夫は、『立憲国民の覚醒』という本を出版しています。その本で斎藤は、立憲政治の下においては先ず憲法というものがある、そして憲法は国を治める大本を定めたる大法律であるから、いかなる者も一歩も憲法を離れて政治を行う能(あた)わざるは言を俟(ま)たない、君主である天皇でさえも、帝国憲法第四条に「此憲法の条規に依り之を行う」と規定されている以上、これを守らなければならない、ならば政府や国会議員は言うまでもない、彼らは必ず誠心誠意をもって憲法を遵守し、その精神に従うことを「第一の任務」としなければならない、と立憲の大義を説いています。さらに、立憲政治がきちんと機能するためには、主権者である国民個々人が立憲意識に目覚め、政治家を適切に監視していかなければならない、と説いています。戦後、斎藤は吉田・片山内閣で大臣を務め、1949年( 昭和24年) に80 歳で亡くなりました(森山まゆみ『あき地』より)。

斎藤隆夫が批判精神を失わ ず、議会で敢然と政府に対して議論を挑むことができたのは、立憲主義と批判主義の大義を体得した弁護士だったからではないでしょうか。このような大先輩を有していることを誇りに思わざるを得ません。

仲田 信範(28期)
●Nobunori Nakada

NIBEN Frontier●2020年1・2月合併号