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この一冊

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『赤と黒』(上下巻)岩波文庫(上)1,070円+税 / (下)1,040円+税
スタンダール 著 / 桑原 武夫 翻訳 / 生島 遼一 翻訳

さして読書家というわけではない私にも、貪るように本を読んだ時期がある。大学受験を終えて、精神活動は旺盛なのに、当面の目標を失ってしまった大学一年生の頃である。時間は有限なので何か意味のあることをしなければと切迫感に苛まれ、無駄にはならないだろうという理由で、名著の評価が揺るがない本ばかりを読み漁った。本書に触れたのもそういう事情からで、何かを得られると期待していたわけではなかった。
本書は、ナポレオンに憧れ、立身出世の野心に燃える青年ジュリアン・ソレルが、二人の女性との恋愛の果てに破滅を迎えるという、いかにもフランス文学らしい長編小説である。その時代背景の影響や、文学史における位置付けが語られることもあるが、本書の神髄は、登場人物の心の動きの言語化が極致に達している点であろう。人の心が思考する際には、言語の助けを得ることが通常である。しかし、心の動きは思考だけに用いられるものではない。感情に揺さぶられ、それが思考を凌駕して行動を決定してしまうことが、むしろ人の通常の姿かもしれない。では、そうした感情はどのように表現できるのか。役者が演技で、歌手が歌唱で、画家が絵画で感情を伝えるように、小説家は言語で感情を描く。本書の著者スタンダールは、恋愛をモチーフに、心の微細な動きの一つ一つを、細胞を顕微鏡で覗くように、これ以上ない精密さで描写する。それが、ジュリアンと二人の女性の心の動きに実在感を与え、本書に普遍的な価値を与えている。私が本書に触れたのは30年以上前であるが、ジュリアンと初めて指が触れ合ったことに歓喜し、その愛情を信じ抜こうと決意する彼女の横で、自分は臆病ではないと証明できたと興奮し、英雄的気分に陶酔して、彼女の思いなど頭にないジュリアンの心の描写は忘れられない。
本書を読み終えたときには、なるほどこれを世界の十大小説に挙げる人がいるのも分かると大いに納得したが、それ っきりで、私自身には変化を感じなかった。しかし、思い返してみれば、人の僅かな挙動も心の繊細な動きを雄弁に物語っており、それを見逃してはならないという、他人に対する私の観察の仕方が養われる大きな契機になったようである。視線を向けられていたのはたまたまか、何かを言いかけていなかったか、話題の転換が唐突ではないか、挨拶を避けていなかったか、声が妙に大きくないか...。人の挙動の中に時々ノイズのように混じる不自然さに注意を向け、その意味を考える習慣は、人生に大きな意義を持つ。良書を読むことの価値は、読者が意識しなくとも、その精神の深部に作用し、生涯にわたり影響を与えることにあって、まさに本書は私にそうした価値を与えてくれた。かような次第で、未読の方、特にお若い方々には、この古典的名作を、今更ながら強くお薦めしたい。

日下部 真治(47期) ●Shinji Kusakabe