山椿
大原 義一 (37期)
●Giichi Ohara
シベリア
私の父は、大正13年に福島県の農家に生まれ、高等小学校を卒業して間もなく、中国大陸へ渡り南満州鉄道(満鉄)で少年鉄道員として働いておりました。そして現地で召集を受け兵役に就き、戦争に参加し、中国各地を転戦しました。敗戦後は捕虜となり、シベリアに送られ抑留生活を送りましたが、生きて日本に帰国することができました。帰国後に結婚し、小さな商売を営み、5人の子供をもうけました。私は長男になります。私は子供の頃より父から中国大陸での生活や兵隊時代の出来事(残酷な)、シベリア抑留時代の苦労話などを繰り返し聞かされて育ちました。最近では若い頃の記憶が鮮明になるらしく、今まで聞いたことのない新しい話などをしていました。その父も数年前に亡くなり、父の長い戦後もようやく終わりました。
舞鶴
昨年の夏、京都府の舞鶴へ初めて旅行に行きました。父がシベリアから日本へ引き揚げたときの港が舞鶴港で、父が生前何度も舞鶴の話をしていたからです。舞鶴には引揚記念館があり、何年か前に秋篠宮殿下が訪問されたこともあって、大幅にリニューアルされていて、大変立派な施設でした。驚いたのは、一口にシベリア抑留といっても、広大なロシア全土に、遠くはウクライナ、モスクワ近郊、カザフスタンまで、千を超える収容所が点在していたことでした。これでは父がどこの収容所にいたのか分からず、収容の地名ぐらいは聞いておくべきでした。引揚記念館では、厳寒の収容所の様子、苛酷な労働・生活がリアルに再現されており、父はよく生きて帰ってこれたものだと改めて感心しました。父は舞鶴で復員兵に支給された金を兵隊仲間数人で出し合って、大福を腹いっぱい食べようとしました。しかし、戦前では相当な金額であったのに、買えた大福はわずか数個でした。私は舞鶴駅前の和菓子店で大福を購入し、その際店の人に、この店はいつから営業しているのか聞いたところ、戦前からの店で100年位は経っているとのことでした。私は父が食べたかもしれない大福を食べることができました。ただ、当時有り金をはたいて大福を買ってしまって、父は福島までどうやって帰ったのでしょうか。
モスクワ
舞鶴旅行のすぐ後に互助会のロシア旅行に参加しました。ロシアは初めてで一度行きたかった所で、互助会委員の先生方のおかげで、大変楽しい旅行をすることができました。ロシアというと、怖い、暗い、という印象を持つ人もいるかもしれませんが、実際は、ベンツの高級車が走り、マクドナルドもケンタッキーもある活気に満ちた明るいところでした。モスクワの赤の広場では、毎日コンサートが開かれており、出店もたくさんあって、多くの人でにぎわっていました。ロシア美人のコンパニオンが笑顔で写真撮影に応じていました。皆さん幸せそうで、平和の有り難さをしみじみと感じました。
モスクワの赤の広場にて