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少年とともに

委員会ニュース(子どもの権利に関する委員会)

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社会的養護出身の子どもの法的サポートについて
~外国籍の棄児の帰化許可申請が認められた事例~

黒松百亜 Momoe Kuromatsu ―54期
荒谷淑恵 Yoshie Aratani ―66期

虐待や遺棄などの理由から家庭で生活ができない子どもを社会が養育・保護する仕組みを「社会的養護」※1といい、現在、約4万5千人の児童がその対象とされています。児童養護施設(以下、「施設」といいます)等で育った子どもは、原則として18歳で施設等を退所し、自立を余儀なくされます。一般家庭で育った子どもの多くは、自立後も、「家庭」という精神的・経済的・教育的な基盤がありますが、社会的養護出身の子どもは、そうした基盤がなく、住居や就学を維持することが困難であったり、劣悪な処遇での就労を強いられるなど、社会生活上様々な困難に直面します。子どもの権利に関する委員会では、有志メンバーが施設の自立支援コーディネーターとの勉強会※2に取り組み、社会的養護出身の子どもたちを取り巻く困難を把握し、必要に応じて法的サポートを提供しています。以下、この勉強会を契機として、帰化許可申請に取り組んだ事例を紹介します。

※ 1「社会的養護とは、保護者のない児童や、保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任で社会的に養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことです。社会的養護は、『子どもの最善の利益のために』と『社会全体で子どもを育む』を理念として行われています」(令和3 年5 月厚生労働省子ども家庭局家庭福祉課「社会的養育の推進に向けて」より)。
※ 2 自立支援コーディネーターの定義や、当委員会との勉強会については、二弁フロンティア2020 年10 月号「少年とともに」をご参照ください。

1.事案概要

依頼者は、外国籍(本レポートでは「A国」とします)の棄児として幼少期をA国で過ごした後、日本国籍の男性とA国籍の女性の夫婦と養子縁組を行って来日し、「定住者」としての資格を有しながら日本で生活している未成年者でした。来日後まもなく、養母からの身体的虐待により児童相談所の措置を受け、18歳になるまで施設で生活を続けていました。その間に依頼者がA国を含めて海外渡航をした経験はなく、依頼者は日本語しか話せませんでした。
養母と依頼者とのコミュニケーションは困難で、養父も依頼者の養育に消極的であったため、養父母と依頼者との関係は極めて不安定でした。そのため依頼者は、18歳で施設を退所するに先立ち、自立支援コーディネーターと生活設計を話し合った結果、養父母との生活は断念し一人暮らしに向けて準備を進めることとしました。依頼者は、その生い立ちからすると当然のことですが、日本人としてのアイデンティティを有し、今後も日本での生活を継続するつもりでした。一方で、依頼者は、幼少期に外国名であることにより心ないイジメを受けた経験もあり、今後、生活や就労で不利益を受けることのないよう、日本国籍を取得したいと考えていました。
なお、相談を受けた当時は在留資格の更新の時期でしたが、それまで依頼者に代わって手続を行っていた養父がこれへの関与を拒否したため、依頼者は施設に身元保証をしてもらった上で自ら更新手続を行わざるを得ませんでした。この先、養父との関係に左右されることなく、依頼者が日本で生活を続けるためにも、依頼者にとって日本国籍の取得は必須でした。

2.活動内容

  1. 日本国籍の取得に向け、依頼者の事情を考慮すると、本件は国籍法8条2号に規定されている簡易帰化の要件を満たしていると考えられました。しかし、法務省作成の「帰化許 可申請の手引」において必要とされている、国籍・身分関係を証する書類は本国でしか取得できず、養母の協力が見込めない本件においてその取得は困難と予想されました。そこ で、履歴書等の当時準備できた書類のみを持参し、法務局の事前相談に同行しました。
  2. 事前相談の結果、国籍・身分関係を証する書面として、国籍証明書の提出が求められました。国籍証明書の申請にA国大使館に同行したときのことは忘れもしません。窓口の担当職員から、「誰もA国語を話せないのか」と言われ、露骨に嫌な顔をされたのです。依頼者がA国籍を有することやその後日本で生活するに至ったことは、いずれも依頼者が選んだことではありません。家庭という後ろ盾を持たず、外国籍であることでたくさん辛い経験をした依頼者が、その困難に配慮されるどころか公的機関からも非難される――生活環境と国籍の不一致が依頼者の健全なアイデンティティの形成を阻んできたことは明らかですし、今日に至るまでの依頼者の心情を慮るに余りあるものがありました。
    また、出生証明書に代わるものとして施設職員の名前で上申書を作成しました。その主な内容は、A国での生い立ちや来日後措置に至った経緯、措置中の養父母との交流の状況等から本国でしか取得できない資料が準備できない事情を記載したものです。
  3. 事前相談の翌月には帰化許可申請が受理され、半年後には面談が行われました。ところが、その後、依頼者がコロナ禍で失職してしまい、生計の目途が立たないという事態が生じました。一時は施設の職員や当職らとの連絡も途絶え、帰化許可の判断に不利になると大いに懸念されましたが、依頼者が頑張って転職先を見付け、就労を再開しました。面談において、帰化許可申請から結論が出るまでに1~2年は要すると説明を受けたものの、実際には、申請受理から1年足らずで帰化が許可されました。 帰化申請が迅速に許可された理由としては、親子関係の実態よりも、形式的に日本人父と養子縁組をしていたという点が、非常に有利に扱われたのではないかと考えています。なにより、自立支援コーディネーターが、依頼者が施設で生活しているときから帰化許可を得ることを意識し、依頼者と当職らとを結び付けてくれたことや、その後も一連の手続や資料取得に尽力してくれたことが、功を奏したものといえます。

3.終わりに

依頼者は、帰化許可を受けて日本名に改名し、今もアルバイトで生計を立て、頑張って自立した生活を続けています。コロナの終息も見込めず、この先の依頼者の生活には不安な点も残りますが、帰化によって認められた日本国籍が、依頼者を勇気付け、日本での生活を後押ししてくれることを願って止みません。
遺憾ながら、今の日本社会では、外国籍であることで、就労や社会生活で不条理な差別を受けることが少なくないのが実状です。社会的養護出身であるという事情が加われば、その困難はより一層深刻なものになるでしょう。本事例の依頼者のように、適時に適切な法的サポートを得ることでその不利益が一定程度解消されるものの、法的サポートにたどり着けず、不合理な差別や偏見に今もなお苦しんでいる子どもたちはたくさんいます。全ての子どもたちが、その尊厳とアイデンティティを脅かされることなく、進路や生活を自由に選び取れる社会を実現するため、当委員会としても力を尽くしたいと考えています。

はじめての少年事件

水野遼太 Ryota Mizuno ―71期

はじめに

少年審判の当日、私は、少年院送致の決定も覚悟して、少年とその両親と一緒に、家庭裁判所の待合室で待っていました。すると、審判までまだ時間があるのに、私は、裁判官室に呼び出され、こう言われました。「先生に関与してもらう形で、試験観察にしたいと考えています」。

事件の配点

少年審判に至るまでやその後の経過は、後に述べることにして、事件が配点された時点まで話を戻します。
私は、修習生時代に、2か月間の弁護修習の中で、指導担当弁護士と一緒に、初回接見から少年審判までの一連の弁護人・付添人活動を経験する機会に恵まれました。その中で、当初は幼かった少年が、短期間のうちにたくましくなっていく様子を見て、自分自身も弁護士になったら少年事件を担当したいという気持ちを持つようになりました。
弁護士になってしばらくして、少年事件名簿に登録をしましたが、なかなか配点がなく、ようやく配点が来たのが、本件でした。
被疑事実は、路上で見知らぬ被害者に暴行・脅迫をしてわいせつな行為を企てた、という強制わいせつ未遂でした。ところが、少年の話を聞いてみると、たしかに暴行・脅迫はしたものの、わいせつな行為をすることなど考えていなかったということでした。少年は、はじめての身柄拘束に大変不安を感じている様子でしたが、わいせつ目的のないことは、はっきりと述べていました。
非行の原因としては、親子関係の不調がうかがわれました。少年は、かつて親から体罰を受けたことがあり、そのことで親に対する不信感を抱き続けてきたようでした。少年は、ほかにも様々なストレスを抱えていたところ、親との口論が引き金となり、イライラを募らせて、見知らぬ被害者に暴行・脅迫をするという突飛な行動に出てしまったのでした。

黙秘か否か

環境調整としては、被害者対応はもちろんのこと、少年本人の内省の深化や親子関係の改善に取り組む必要がありました。
他方、罪体に関しては、わいせつ目的について否認していたことから、取調べ対応をどうするのかに頭を悩ませました。初回接見の際には、少年が比較的しっかりとしていることなどから、「記憶にあることは記憶のとおりに話して、覚えていないことは覚えていないと言えばいいよ」とアドバイスしました。しかし、その後落ち着いて考えてみると、取調べにおいて少年が客観証拠に沿った合理的な説明ができるかどうかは分からず、仮にそのような説明ができたとしても、警察官が少年の説明したとおりの調書を作る保証はありません。
そこで、私は、少年事件チームの先生に相談するなどして、本件では、取調べ対応としては黙秘をさせ、接見の際に弁面調書をとっておく、という対応に変えることにしました。
結局、家裁送致される罪名は、強制わいせつ未遂ではなく、暴行・脅迫となりましたが、初回接見のときから、取調べ対応を決めきることができなかったのは、反省点です。

家庭環境の調整

本件の環境調整において、少年と親との関係改善は、不可欠なものと思われました。少年の親は、当初、自身の関わり方が少年の非行の一因となったという認識を持つことができませんでした。そこで、私自身が少年とその親との一般面会に同席したり、少年もその親も信頼を置いている知人を交えて話し合いをしたりして、関係改善を試みました。少年の親は、きちんと子育てをしてきたという自負が強く、調整は困難を極めましたが、最終的には、自分自身も少年との関わり方に問題のあった面があると述べるようになりました。
もっとも、調査官は、調査官面会における少年の親の言動を問題視しており、自宅に戻った後に少年を支え続ける態勢が整っていないのではないかと懸念していました。最終的な調査官の意見は、「少年院送致相当」でした(なお、裁判官は事情があって審判直前に交代したようであり、裁判官面接時には心証はわかりませんでした。)。

審判当日

審判当日は、少年院送致の決定も覚悟しつつ迎えました。そのような中、審判直前に、裁判官から、冒頭の言葉を伝えられました。
私は、できることは何でもする旨答えたところ、裁判官からは、調査官と付添人で、毎月各1回、少年及びその両親と面談を行うなどの条件で、試験観察としたいとの見通しが伝えられました。
私は、すぐにでも少年に教えてあげたい気持ちをぐっとこらえ、平静を装って審判に挑みました。
少年は、事件当初は、なぜ非行に出てしまったのかが自分でも分からないと述べており、被害者への手紙にも長々と弁解を書くなどしていましたが、審判では、なぜ非行に出てしまったのか、再非行しないためにはどうすればよいか、被害者がどんな思いをしたと思うのかなど、この間じっくり考えたところについて、しっかりと述べることができました。
その結果、審判では、試験観察となりました。

試験観察

その後、私は、月に1回、少年とその両親と面談を行いました。面談は、親子喧嘩が勃発してしまい3時間もの長時間に及ぶこともありましたが、試験観察期間中に少年が大きな事件を起こすことはありませんでした。少年は、両親とコミュニケーションをとる機会が増え、両親も「本人の顔付きが変わって、穏やかになった」と言っていました。
最初の審判から約5か月後、改めて審判期日が設けられ、保護観察の決定がなされました。少年の環境が少しでも改善し、保護観察という結果が得られたことには、肩の荷が下りた思いでした。

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