出版物・パンフレット等

山椿

●池永 朝昭 Tomoaki Ikenaga (33期)

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「石黒徹弁護士と私」

当会所属だった故石黒徹弁護士(通称、「クロちゃん」)は桐朋高校の同級生だった。クロちゃんは、私が所属した体操部の部室の裏に部室があったバスケット部部員だったが、クラスも違い、部活も体操部とバスケ部は毎日交互に体育館を使うので会う機会も少なく、顔がわかる程度だった。ただ、ハンサムでかっこいいやつだなあと思っていた。

早大法学部2年生になった時に、法学部読書室から出てきたクロちゃんにばったり会った。「あっ」と思ったがそのまますれ違った。「あいつ、東大に行ったんじゃなかったけ?」と思ったことをよく覚えている。

クロちゃんと再会したのは私が33期修習生となって神戸に赴任し、32期修習生が歓迎会をしてくれた時だ。32期の中に見覚えのある彼がいた。すぐに親しくなり、それもあって他の 32期修習生とも近しくなった。修習終了後32期の一人に誘われた事務所に就職しても、32期の連中と遊んでいた。ただし、濱田松本法律事務所に就職したクロちゃんは忙しそうだっ た。その頃はユーロボンド起債案件を年間300件もこなしていた。

私が登録2年目で病に倒れ入院している時に、彼と32期の連中が当時の彼の秘書(今は森・濱田松本法律事務所(MHM)の大パートナー)を含む女子達と宴会をしてその実況録音テープを送ってきてくれた。イヤフォンで聞いてみると私をネタに抱腹絶倒の会話が続く。ひどい奴らだと思いながら、病室で笑いを必死でかみ殺した。その宴会の終了直後、彼は米国留学のために飛び立った。

私は退院後、事務所を移り、挑戦がしたくて登録6年目で留学し、コーネル大を卒業しNYCの中規模事務所の研修生になった。ある時、証券を日本企業に私募で売るという案件で日本法のリサーチを命じられ、コロンビア大の図書館に赴いて調査したが、よく理解できなかった。そこでクロちゃんに電話をして教えを請うた。彼は猛烈に忙しかったのに、快く「今手元に証券六法がないけれど、●●令の●条あたりに●●という条文があるだろ。わかりにくいんだがこういう意味で、この条文の他に大蔵省の決め事があるんだ。」と暗記した条文とともに当時の海外発行証券の持込規制をすらすらと解説してくれた。彼の説明のスマートさは忘れえない。後年、自分も金融・証券で禄をはむようになり、彼のシャープさが増々わかるようになった。

それから私はローファームをいくつか渡り歩き、滞米12年。それを切り上げて帰国後は、彼とは2、3年に1回くらい仕事又は遊びで会っていた。最後に会ったのは、63歳の時。向島の料亭で二人きりで色々な話をした。その折、彼は小唄をうたい、世の諸行無常を語った。彼が挑戦し成し遂げた初期銀行ローン証券化案件、グローバルIPO第1号案件、J-REIT第1号案件等の数々の業績、長年のMHMの経営へのコミット、LGBTの権利擁護の公益活動をみれば、彼には無常なんて無関係だろうになぜ?と感じたが、彼は「今の幸せは一瞬にして消えるからこそ、今を大事に生きること」を言っていたのだ。

クロちゃんは2020年5月18日に65歳の若さでこの世を去った。MHM編纂による彼を偲ぶ小冊子には、彼がMHMを退職した日の夜に「非常に充実した楽しい40年間だった」としみじみと語ったという逸話が紹介されている。これが私を突き動かし、新たな挑戦のため大事務所からブティック型事務所へ移籍する決断に向かわせた。自分にはその充実感がなかったからだ。迷っていた私の肩を押してくれた思いだ。

今年5月の三回忌に、小浜島の美しい海辺に眠る彼を慰霊に行った。彼の好物であったウィスキーと、花びらを海に撒くと、とてつもなく安らかな気持ちになった。夕食時、宿の方が気をきかせてショットグラスで2杯ウィスキーを出してくれた。彼の写真を前に「二人」で飲み交わした味は「挑戦」の味だった。