会長対談
今年の会長対談のゲストは、歴史学者の加藤陽子教授です。大学時代を共に過ごし、その後、歴史家と法律実務家というそれぞれの道を歩んできた2人の女性。実際に会うのは久しぶりということでしたが、大学時代の思い出話からジェンダー問題、ベストセラーの裏話、学術会議の任命拒否問題、公文書の重要性など、話は尽きることなく、あっという間に時間が過ぎました。歴史家と法律実務家の営みに共通するもの、そして、それぞれの使命とは。
菅沼 友子 Tomoko Suganuma
当会会長
加藤 陽子 Yoko Kato
東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は日本近代政治史。
1989年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。同年から山梨大学教育学部、94年から東京大学文学部で教え、現在にいたる。
著書に『模索する1930年代 日米関係と陸軍中堅層』(山川出版社)、『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館)、『満州事変から日中戦争へ』(岩波書店)、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)、『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社)、『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房)、『歴史の本棚』(毎日新聞出版)、編著に『天皇はいかに受け継がれたか』(績文堂出版)、共著に『学問と政治』(岩波書店)がある。2022年から歴史学研究会委員長を務める。
はじめに ~二人の出会いから
菅沼 私の記憶に基づいていくと、実は生年は同じねずみ年なのですが、私は1年浪人しているので、加藤さんの方が1年先輩。
加藤 そうでしたね。
菅沼 学部は違うのですが、駒場ではいろいろなことで接する機会があって。
加藤 ええ。特に女子学生はね。
菅沼 あの大学では少なかったですからね。それでいろいろ接する機会がありました。私は当時から女性差別の問題に関心がないわけではなかったのですが、加藤さんが婦人論ゼミをやっておられて、その関係で女性差別撤廃条約に関しての企画を駒場祭でやるということになって、それに関わらせてもらったという、そんな記憶です。女性差別撤廃条約は1979年採択ですよね。
加藤 国連でということで、まだまだ日本では女子差別撤廃というより、駒場では、まずはインフラが大事でしたよね。例えば体育の前に女性が着替えるロッカールームがないとか、お手洗いの数が少ないとかね。
菅沼 そう、そう。
加藤 そのインフラ整備をやる中で婦人論ゼミがあり、駒場がある種、先進的な試みで自主ゼミで大学の費用で呼びたい先生を呼んでくれる。それで、じゃあ、米田佐代子さんを呼ぼうということで呼んでみたら、男子学生が半分ぐらいゼミに出てくれて。米田さんというと、例えばこういう山川菊栄を読みましょうとか、いろいろ限定はあるかと思いきや、ゼミに出てきた男子学生さんが、じゃあ、ベーベルの『婦人論』とかボーヴォワールの女性論とか、オーソドックスなところから読もうと言ったら、そういう読書会を普通に許してくれてリードしてくれて、すごくいい雰囲気で、合宿までやりました。そうした流れで、女子差別撤廃条約の駒場祭企画というのがあったのだと思います。
菅沼 まだまだ本当に知られていなかったと思いますね。日本も批准するために、例えば家庭科が女子学生だけというのを変えなくてはいけないとか、国籍法を変えなくてはいけないとか、そういう具体的な法律改正の議論になってからは、法学部の学生などは女性差別撤廃条約に対して考える取り組みがあったような気がしますが、そのころというのは本当にまだまだ知られること自体が大事みたいな時でしたよね。
加藤 そうです。だから、『女性のいない民主主義』(岩波新書、2019年)という本で前田健太郎さんが書かれたように、介護とかケア、ケアという言葉はその頃はまだなかったですが、男性がほとんど半永久的雇用で、妻が家庭のケアをするということが当然だったので、就職差別や、女性は25歳で辞めなければいけないというのがだめなんだよというような、まだまだそのレベルの啓蒙をしなければならない時代だったような気がしますね。
菅沼 そうですよね。
加藤 企業、男性の永久雇用というか、そこが前提になる介護。だから政治という、政治学の中で女性がいないということが通説的に語られる違和感が自覚されたのは1990年代半ばだから、まだまだですね。その10年以上前の話でした。
菅沼 条約批准のためには、労働に関しても法律をつくらなくてはいけないというので、男女雇用機会均等法の成立に向けた議論も始まって、そのころから私は女性労働に結構関心を持つようになって、具体的に弁護士を目指したいと考えるようになったので。
加藤 法学部で研究者の道ではなくて、やっぱり弁護士?
菅沼 そうですね。研究者は考えたことはなかったわけではないですが、あんまり勉強に向かないなというのが、勉強をしている中で分かってきたのと、いろいろな人権課題に取り組んでいる弁護士さんとか当事者の方とお話をする機会があったりして。それで当時の女性労働なんて本当に、何というか、平等という文字はないという、そういう時代の中で、裁判を起こすこと自体が、女だてらに何やっているという空気感の中で、女性の弁護士さんがまだ本当に少ない中で弁護をやっているようなお話を聞いて、こういうようなことに関われたらいいなと思いました。もともと動機がそんな感じだったので、弁護士になってから女性関係のことは意識的にやっていました。仕事はいわゆる何でもやるマチ弁で、家族の問題とか、いろいろな一般民事を何でもやるという感じでしたが、その中でも、女性の問題は結構やっていて、今言った女性労働の問題や、賃金差別もやりましたし、産休とか産休後の育児期間をとったためにボーナスが全然支払われなかった案件の事件であるとか、あとは非常勤の地方公務員の方の賃金差別の事件というのもありました。
加藤 労働関係だと、賃金というところをやると、今の男女共同参画というような、ちょっと言葉の入り口に問題があるかもしれないけれども、乗りやすい、関連しやすい問題をまずきちっと捉えたというところが大きいかな。
菅沼 そうですね。
弁護士会・大学におけるジェンダー問題
加藤 私は1994年に東大に戻ったのですが、その後2002年から総長補佐なども務めた縁でハラスメント防止委員会に関わることになって、2003年にセクシュアルハラスメントに関する学内のアンケート調査を行いました。当時、東大の女子学生たちが自己紹介のときに「東京大学」と言わずに「東京の大学です」と言っていたような大学での実態調査だったわけですが、セクシュアルというよりはアカデミックという側面が大きいということと、むしろ教授など上位者によるというよりは、同級生を含めて、今現在実態として20年たっても何ら変わっていない問題があるというのは把握されていました。歴研の有志らが作った『アカデミズムとジェンダー』という本は私自身が関わったものではありませんが、西洋史学、東洋史学、日本史学、歴史学関係の人文の女性研究者の地位について調査しますと、悩みが現在とほとんど変わらないのです。
菅沼 加藤さんは、この6月に(2022年6月)、歴史学研究会の女性で初めての委員長になりましたよね。
加藤 そうです。歴史学研究会は1932年に発足して今年で創立90周年なのですが、以前から年間30人ぐらいずつ選ばれる委員のうち3~4割は女性だったんです。けれども女性の委員長はこれまで一度も出ていませんでした。委員長は週に一度夕方6時から4時間くらい続く会議に出なければならないとか、ワークライフバランスがあまりにも劣悪だったということと、私の研究室よりもっとひどいようなところに30~40人詰め込まれて会議をやるというような、そういう会議を2週間に1回開催しなければいけないということで、無理だという感覚が多かったと思います。でも今はオンライン会議で、フライパンを握りながらできるよね、子供をあやしながらできるよねという、このオンラインという流れと、私が選ばれたというのは無縁ではないと思います。あと、歴史学というリベラルな歴研の中でさえ、実は部会レベルではハラスメントがありましたよねといろいろなことが分かってきたので、機運が上向いたのではないでしょうか。
菅沼 そういう少数者のところの声もくみ上げてくれるのではないかという、そういうような期待もあるのではないでしょうか。
加藤 少数者というよりは、アンコンシャスハラスメントってありますよね。
菅沼 はい。
加藤 おそらく、そのアンコンシャスハラスメントというものが、学会ではこの10年でようやく分かってきたのかなという印象です。夕方6時からの委員会でも、「いやいや、論文査読という大事なことをするならば、これは公正さを期すための会議なら長く時間がかかっても仕方がないんだ」と、これでずっと長時間会議のスタイルで来ていました。ここがやっぱりだめだよという、いろいろ工夫をすることで、つまり私が音を上げるようなワークライフバランスではだめなんだということをちょっと理解してくれたのだと思います。
菅沼 それは弁護士会も同じようなもので、理事者のような政策決定の機関に女性がいるのは大事ですが、やっぱり従来のようなやり方だとすごく負担をかけることになってしまいます。そういう中で本当に環境も整えていかなくてはいけないので、今のオンラインの活用とか、いろいろな会議の効率的な運用とか、そういうこともしっかりと考えていかないといけないと意識され始めています。先ほどの話の中で、実態として20年たっても変わっていない問題があるということでしたが、どうして変わっていないのでしょうか。
加藤 歴研の月報の委員長就任あいさつでも書いたのですが、伊藤野枝が『乞食の名誉』という小説(1920年)の中で書いた「女性は"多くの不覚な違算"に囲まれている」という一文があります。「多くの不覚な違算」、例えば、重要なプレゼンの前に子供が熱を出すとか親が入院するという、この想定外の出来事つまり「違算」の弾が当たるのは多くの場合女性であるということです。家父長制的なあり方とか戦前期ならともかく、伊藤野枝の小説から100年たった現在でもその状況は変わっていません。なぜかと考えたときに、1980年代までの日本の高度成長をどういう家族と社会が支えたかというと、「男性が外で働き長時間労働をして、女性は家庭でそれを支える」という企業福祉型社会です。そして企業が年金を男性に払い、その男性も55歳ぐらいで辞めて65歳ぐらいで亡くなると。そのように、企業が社会福祉を担っていたわけです。つまり、世界2位とまでいわれた経済成長を支えた家族というのが、実は、明治から戦中までの家族よりも更に女性を家に押し込めるモデルになっていたのです。子育てと、両親が4人いたら4人、その全ての介護を個人の問題として処理してきました。非商品化、つまりなかなか商品化されない家事労働を100年来にもわたって家庭内の女性に担わせてきたわけです。企業の調子がいいからといって、その仕組みを温存してきてしまったことがまだ響いているんだと思います。
今また違う形で、非正規の女性がコロナ禍であっという間に放り出されて、ということがいわれています。これは1990年代の行政機構改革以降の新しい国のかたち、新自由主義を打ち出した橋本龍太郎政権のときに、京都大学の佐藤幸治先生が行政改革会議の最終リポートを書きましたよね。その中で書いていたのは、この国のかたちというのは憲法だと。日本人というのは今まで戦後は行政の客体として、何か口を開けて待っていれば、ヒナみたく餌がやって来る、そういう個人ではなくて、自立した個人、その個人をこの国のかたちとして持たなければいけないということを佐藤幸治さんが、彼らはあの後起こったことを考えたら絶望したと思うのですが、1997年の最終報告ではそういうことを書いていたんですよ。だから1980年代までの理由と、2000年以降の理由というのはそれぞれ違うけれども、女性が商品化されない家庭内のケアを一手に引き受けさせられている現状が、これが理由を違えても続いていれば、女性はやっぱり生き延びるすべがないというか、いろいろなタイミングのときに仕事を辞めるんですよ。国会議員の先生たちは、女性であっても、代わりにケアをする人はいますよと。私なんかも恵まれています。いざとなれば頼んでやってもらえるわけです。でもそうできない方は仕事を失いますよね。だからこのいろいろな20年ごとにおける理由は違っても、家庭内のケア、これが女性におおいかぶさっているという、ここが1つあると思いますね。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
菅沼
話は変わりますが、加藤さんといえば、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社、2009年)という本がだいぶ売れましたよね。
加藤さんはあの高校生と考えるという企画は何で受けたのですか。
加藤 1つのきっかけは、ある学校の高校生が、広島原爆か沖縄の戦争被害の語り部さんに対して、つまらないという態度を取ってしまったということがあって、それが話題になったことがありました。そのときに私が思ったのは、もしかしたら今、例えば古今亭志ん生とか噺家の話を聴いて、落語の世界を想像できる子がいるかどうかといったら、やっぱりすごく減っているだろうと。例えばもう年を取ってしまったひめゆりの語り部さんが17~18歳の体験を語ったときに、自分事という、私の問題、僕の問題というふうに想像を働かせて聴ける子と聴けない子がたぶんいるだろうと思ったんです。これはその人の教育のバックグラウンドもあるし、特に私も、親戚の子などに新美南吉さんの童話『手袋を買いに』など読み聞かせをすると、やっぱりすごく退屈そうにする子と、逆に、声だけで聴いているのに目を輝かせて聴く子もいて、つまりこれは聴く側の意識の問題だということで、「大事だから聴け」というのではだめだ、と思ったんですね。授業の間だけでも聴いてもらうために、例えば、自分が満州移民として、その場にいて、関東軍が逃げていったということが今、公報で伝わってきましたと。この瞬間、自分たちが女、子供を連れてどう逃げる?から始めて、やはり自分事として考えてもらうにはどうするかを工夫しなければいけない。その1つとして、やっぱり為政者の頭の中を想像してみることをさせなければいけない。今までの平和教育や歴史学だと、悲惨な戦争を語るという悲惨さを詳述するわけですね。だけど「悲惨だ。じゃあ、二度と起こさない」ではたぶん想像はつかない。何で山縣有朋とか大山巌は日露戦争をこれでやめようと思えたのかなとか、何で昭和天皇はまだもう一勝利謀ろうと思ったのかなとか、それぞれ根拠があるわけです。根拠も、私の根拠ではなくて、はい、これは資料に出ていますというところを示すと、「あ、やっぱり昭和天皇は40歳。こういう判断をするんだ」ということで腑に落ちるところで分かる子もいるだろう。だから目がらんらんと、何でも分かっちゃう子が3割。腑に落ちる子が3割。6割まで持ってきておけば、ある種野球のゲームも少し面白いゲームができるかなという、そのもくろみはありましたね。
歴史家は自分は歴史が好きだから面白いと思うから、難しいことを書いちゃうんですよ。法律家が法律書を書いて、なかなか分かることを書いてくださるのは難しいのと同じかもしれない。でもそれをやっちゃだめだということを想像できたので、ちょっと変な本を書いてみようと思ったというのが理由ですね。
菅沼 そういうことだったんですね。それで実際やってみてどうだったんですか。
加藤 やっぱり想像を超えましたね。途中でみんなが笑っちゃったのは、栄光学園は、変わった子がやっぱり多いので(笑)。「イギリスはどうすべきでしたか」と質問したら、「第一次大戦で負けておくべきでした」とか、想像の斜め上を行く答えが出てきたりして。普通に期待している答えを言ってくれないので、言わせるまでがんばる、みたいな(笑)。
菅沼 それでいろいろな子に当てて。
加藤 はい、やっていましたね。
菅沼 なるほど。そういう中で、あ、こういう視点もあるんだとか、何かそういう気付きというか、面白いなという答えもありましたか。
加藤 はい、ありました。いっぱいありました。
菅沼 あれは結構評判になって、売れましたよね。
加藤 はい。かなり売れました。文庫とか合わせるとたぶん50万部くらい売れたと思います。だからやっぱり変わった方が変わったことをやっているという世界がようやく読んでいただけたと思います。
菅沼 当初狙いにした「大事なことだから」ではなくて、為政者の立場になって考えてというような投げかけがよかったのでしょうか。
加藤 私がこういうのを準備していたころ、小林よしのりさんの『戦争論』(幻冬舎、1998年)とか『新戦争論』(同、2015年)とか『昭和天皇論』(同、2010年)とかが一世を風靡していたんですね。それで私がひそかに謀ったのは、そういう本を買っている人が間違って私の本を買ってくれないかな、ということでした(笑)。読むと、なんか「あれ? 昭和天皇とか山縣も出てくるな」とかいって、間違って買っちゃったかな、という、そういうのは考えました。
菅沼 間違って買ったんだけれど、よく見ると歴史的にはこういう事実だったんだみたいなふうに。
加藤 そう。3割ぐらいは、ちょっとネットにはまりそうな、今でいえば、SNSとか読んでネトウヨになりました、みたいな、そういう方をずいぶん引き戻せたかもしれません。
菅沼 その効果は私、聞きました。いわゆる右翼的といわれている人が、加藤陽子さんのことをすごく評価しているという、それで加藤陽子さんの本を読んでいるという話を聞いたことがあります。
加藤 こっちも見てねという。
菅沼 やっぱり視点を変えて、違う角度から眺めてみるというのはすごく大事なことですよね。
加藤 ええ。ありがたかったです。
菅沼 実はこれ、すごく聞きたかったことなんです。ありがとうございます。
学術会議の任命拒否問題
菅沼 やはり加藤さんといえば、学術会議の話は外せませんね。
加藤 2020年10月に任命拒否された一人が私だったときに、第二東京弁護士会が会長声明を出してくださいました。その会長声明が、学術会議の職務の独立や1983年の法改正の経緯を振り返ってくださる、すごく内容の深い抗議声明を出してくださったということで、大変ありがたかったです。ありがとうございました。
菅沼 弁護士会というのは強制加入団体で、思想信条的にはいろいろな方がいるわけです。そういう中で弁護士会として意見を表明するにあたっては、あくまでも法律の専門家として、法律家の立場として、この問題についてどういうことを社会に発信していくべきだろうかという、そういう観点から意見を言うことを一番大事にしています。この学術会議の任命拒否のときの岡田会長も同じように考えて、日本学術会議法の規定にのっとって、この任命のあり方について、法文がどうなっていて、改正の経緯がどうであったか、という法律の解釈に重点を置いた声明を出しました。立法府である国会に対して政府が説明したことについては、当然政府としてその責任を負わなければいけないし、それを政府が勝手に変えてしまうということは、立法府の権限を反故にするというか、法律を勝手に変えてしまうことと実質的には同じだろうと、それは三権分立にも悖るという、そういった点に重点を置いた内容になっています。
加藤 だから骨格がしっかりしているのですね。私は任命拒否された当事者であるとともに一人の歴史家なので、法改正の際の審議経過などにも触れられていることで、単に違法であるといって語気を強める声明と違って非常に説得力があると思いました。
菅沼 『学問と政治 学術会議任命拒否問題とは何か』(岩波新書、2022年)の中で、学術会議がどのようなことをやってきたのかということをいろいろ加藤さんの論考の中で書いていらっしゃったと思うのですが、学術会議の2017年の幹事会の声明ですかね。
加藤 はい。「軍事的安全保障研究に関する声明」(2017年3月24日)ですね。
菅沼 その声明が出される過程でどのような議論がされたかというのをいろいろ書いておられて、学問という、研究者という、そこの立場を一歩も譲らずに、研究という立場から見て、防衛装備庁の研究推進制度に乗るのがどうなのかというのを、軸足を決してぶらさずに意見を言われていたと。
加藤 そうですね、はい。
菅沼 それが、図らずも時の政府から見たら面白くないというふうになったのかもしれないですが、その声明の言っていることはあくまで研究者の立場から学問を維持発展させていくためにはどういうことが必要なのかということで言っていました。私としては、あ、弁護士会のスタンスも同じだな、とすごく思って、励まされたところがありました。やっぱり弁護士会も時として、あんな政治的なことに口を出して、というふうなことを言われることがあるんですけれども、弁護士会が言っていることというのは、基本的には法律専門家として、法律の立場からものを言う。そうすると時の政府からすると、あんまり面白くないようなことになるのかもしれない。けれども、やっぱり法律専門家としては、法的に見たらこういう問題がありますよということを言っていくのは大事なことだし、日本学術会議がやろうとしたこともそういうことなんだろうと思います。そういう活動に対してああいう任命拒否のような問題が起こったのだとしたら、やはりそれは本当に由々しきことだと改めて思いました。
加藤 本当にそうだと思います。私と一緒に任命拒否された宇野重規さん(政治学者)は、忖度に乗ってはいけないからと、何で拒否されたんですかと聞かれたときにも絶対答えなくて、ほとんどコメントせずに声明文を出しました。そのスタンス。政治学者としてはそれが一番正しいのでしょう。ただ、私のような歴史学者としては、「為政者が考えることを考える」ということを普段からしているので、「菅さんは何を当時見ていたのかな」とか、そういうふうに思ったんですね。だから歴史学者としては、自分のことではあるけれども、将来的には学問対象になると思っています。
歴史的な視点の必要性
菅沼 特に今いろいろ、本当に国際情勢も難しいし、日本の状況も難しいし、そういう中で、何か私たちが今の世界あるいは日本、あるいは社会を考える際にヒントになるような歴史的な視点みたいなのがあれば、いろいろ教えていただけると。
加藤 歴史家なんていうと、100年前のこととか平気で1930年代だとか言うので、歴研が90年目でなんて言っちゃうんですね。だけど先ほど第二東京弁護士会の岡田先生の声明の中で、1983年の審議経過ということを声明の中に入れてくださっていましたが、このとき政府が確か参議院とか衆議院の予算委員会とか何かの委員会のときに、「昭和58年などの古い時代の記録ですから」とか、何か古い時代の答弁は法制局は関与しなくてもいいかのような答弁をしていました。この間大きな民法の改正もありましたが、悪くない法は何年前の法でも生きているという前提で対応していいのですか。例えば非常に古い答弁だけれども、その後特に国会で否定されたり解釈が変更されたりしたことがないとしたら、やっぱりそれは維持されているものだという判断でいいのですか。
菅沼 そうだと思いますけれどもね。
加藤 そうですよね。
菅沼 それこそ安保法制が問題になったときにも、これまで歴代の政府が集団自衛権について国会でどういう答弁をしてきていたのか、というのが当然参照されました。その政府答弁から解釈を変えるのかと。
加藤 それで砂川事件判決での使い方とか。
菅沼 ええ、そうです。
加藤 学術会議の任命拒否問題で政府が持ち出した憲法15条1項。あの学術会議の事務局が作った文書に対する法制局のお答えも、あれは3カ月、答えを出すのに時間がかかっているから、やっぱり上まで通したよねというのが見え見えなんですけれども、何というか、学生さんですか?みたいな解釈が多い気もしますがね。
菅沼 そうですよね。
加藤 ただ拾ってくる人によっては、じゃあ、この15条1項でいってみようというようなことはあり得ることなんですかね。
菅沼 どうですかね。内閣法制局の従前のあり方からいくと、そういうことはなかったはずなのが、ひところから内閣法制局の人事は、かなり改変されましたからね。
加藤 そうでしたよね。
菅沼 その影響はあるのかもしれません。そうでないと、せっかく国会でしっかり指摘して質問して政府答弁を引き出して、とやっていくことの意味がなくなります。
加藤 そうですよね。だからやっぱり解釈を変えるならば、立法府なりがきちんとやらなければいけないし、ただ私、思うのは、例えば内閣府というところに、つまり首相の権限という、閣議を開催する権限のようなのも含め、首相の権限というのがすごく強まったのが1998年とか1999年の行政改革だったわけですね。今回、学術会議の問題で調べて初めて知ったのですが、最近よく「何々担当特命大臣」というのがありますよね。こういう、省庁をまたぐような業務、つまり「内閣府の活動のうち内閣の補助や省庁間の総合調整等、一般の省より一段高いレベルから行われる業務」は、行政評価の対象外とされていて、レビューされることがないんです。それを聞いて、私が「えっ?」と思ったのは、例えば総合科学技術イノベーション会議(CSTI)というのがありますね。そのCSTIというところで決めた数百億円レベルのいろいろな事業は、事業仕分のレビュー対象になっていません。学術会議は予算で順位を付けると必ず後でレビューにかかるわけですが、そういうレビューにかからないことをやる人たちがいる空間もあるのだというのを知って、私はちょっとびっくりしました。だからそのあたりに関連する法というのは、解釈がどこで書き換えられているんでしょうという話になるのですかね。
菅沼 いや、そこのところはいろいろ法律を変えましたので、たぶん国会での議論の対象ではあったと思います。ただ法律も、あのときはすごくいろいろな制度が変わりましたので、最近のデジタル法案の関係もそうでしたが、いろいろな法律がたくさんあって、準備する方も漏れがたくさんあって、一度引っ込めざるを得なかったとか何かそのようなことがあったのではないですか。
加藤 はい。
菅沼 そういうような中で、どれぐらいしっかりと、しかも膨大な数の法案なので、審議期間が十分に確保ができていないとか、たぶんそこら辺の問題があるのかなと思います。
加藤 5年後見直しというので全部含んだ上での法律があまりに多過ぎて、その見直しも適正ではないのかなと。共謀罪についても、松宮孝明先生も、これは非常にずさんな法案なんだよということをどこかでコメントしていらっしゃったと思いますが、今の国会、膨大な法律案、包括的に出すので、誰も何も執筆担当者以外は分かっていない状態の法ができている様子など、何か1930年代の国家総動員法の審議と同じ感じがしますね。
あれは1937年、1938年で、何で通っちゃったかというと、あれはずるいんですよ。今、目の前にある日中戦争については発動しないと約束して、全部だーっと通したのです。しかし実際は、各法律の何法は、何項は適用して、とやっていって、発動してしまったのです。だからめちゃくちゃなことが起きました。もちろん当時は輸出入ということで、管制管理できちっとしないと、日本が買う物量が3分の1になってしまうというような状態だったので発動するということになりましたが、この議会を通すときは、帝国議会はある種だまされたということですね。だからそれが今回起きていないか、今の議会で起きていないかは心配です。
公文書の重要性
菅沼 そうですね。だから議会の中で実際、どのように決められていったのか、どう運用されているのか、という公文書がどれぐらいしっかり作られるかということがすごく大事です。例えば経済安保法とかも、いろいろなレベルにそういう細かいところを決める場面が政府に移されてしまって、そこで公文書がしっかりできるのかとか、経済安全保障の中でそれこそ特定秘密も絡んで、どれぐらい公開がされるのかという、そこが非常に密接に絡み合っています。そういう意味では、弁護士会としては大ざっぱな議論ではなくて、そういうところを緻密に、ここのところは法律で本来、例えば共謀罪だと、先ほどご指摘いただいたような、やっぱり刑罰を科すには構成要件がしっかりと法律で決まっていないといけないというのがありますから、そこが決まっていないような法律というのはおかしい、あるいはそこを政令に委任するときに、包括的に政令に任せるというのはおかしいとか、そういう具体的なところでしっかりと意見を言っていくというのは大事なんですが、あまりにも法律をつくるピッチが速くて、ついていくのに必死というところです。
加藤 総力戦下の法体系になっちゃっているところは、公文書で今、行政文書の情報公開、公文書管理はいいんですけれども、岡田副総理だったときの民主党政権下の公文書管理法の施行から、そのときに一番問題になって、しかもたぶんまだ自民党に戻ったらだめだよねというのは、政官の会合の、議案を作るときに官僚たちが自民党の役員会とかいろいろ議員さんのところに行く事前協議や事前審査、そこの方が実は、議会の予算委員会なんかの準備資料を作るのよりよっぽど緊張するらしいんですね。
ということは、政治家と官僚が会うときの会議録が残っているかどうかというところが大事で、いわゆる共有文書ですね。共有文書というのは何が大事かというと、個人が勝手に作ったのではなくて、会議とかで審議しましたよとかいうと、基本的には、これに赤字を入れましょうか、経産省はこうですね、外務省はこうですねといった点検的に政策決定の過程というのが残るのが公文書です。政治家と官僚との間のレクや打合せは、何人もいる場で使われる資料だから本来共有文書なのですが、なかなか開示されません。見せたくないから、保管しない、作らない、作らせないという、非核三原則ならぬ「公文書作らない三原則」になってしまっています。これは絶望的な状況です。
経済安保は本当にこれは日本の戦前期と同じような情報統制がまかり通るかどうかの瀬戸際ですね。しかもこのポストに就く方は、タカ派の方が就く閣僚ポストになってしまっているので、恐ろしいと思います。特に中国がというより、むしろ中国の進んだ分野から日本がいかなる技術を学ぶかが今問題になっていると思うのに、中国との学術とか学生たちの交流が非常に制限されています。戦前期に、例えば商工統計などの基幹統計が1938年以降は専門家しかもう見られなかったそうですが、同じことが起こりつつあるのかもしれません。たぶん情報開示ができなくなるのではないかと思いますね。
菅沼 それは何かすさまじい問題ですね。
加藤 すさまじい問題です。
菅沼 なるほどですね。これから政令などに落とし込む作業が進んでいくので、やっぱりそういうところはしっかりと弁護士会でも意見を言ったりしていかないといけない。実際にはたぶん日弁連レベルでやっていくことになるとは思いますが。
加藤 はい。いいと思いますね。ぜひ。
菅沼 そういうことをやっていかなくてはいけないなと。
加藤 刑罰というところに関わらないと、なかなか意見をきちっと聞いてもらえるシステムが開かれないから、今、有識者会議レベルだと、本当にある種、政府が望むことを言ってくれる方しか呼んでもらえないので、なかなかチェックが利かないかもしれないですね。
菅沼 なるほど。先ほどの公文書の話に戻りますが、加藤さんが専門にしておられる1930年代、戦前のあの時代というのは、『天皇語録』とかそういう形を含めて、いろいろな人がいろいろな文書を私的にも残していますよね。
加藤 そうなんです。
菅沼 平成以降になっていくと、やっぱりそういうことを個人として非常に重要なポストにいた人が残していくのだろうか、とか、ブログとかそういうのに残したといっても、そういう媒体で書かれていることの価値というのはどうなのだろうとか。加藤さんの文章などを読んでいると、本当によくこんな文書を見つけてきて、ああ、そこでこういうふうに読み込むのかとすごく感動することがいろいろあるのですが、そういう文書がこれからの歴史を研究していくときに、このデジタル化というのがどういう影響をもたらすと思いますか。
加藤 おっしゃるとおり地方でも、最近もニュースがありましたが、終戦間際のある村で、国民義勇隊というので、軍の階層と国民の階層がイコールになってしまうような、そういう恐ろしい国民義勇隊の編制というのが構想されたのですが、そのときの史料は民である村会議員さんが持っていました。歴史というのは振り返ろうと思ったときにしか残せないので、戦争に負けるかなと思うと、「あ、残しておこう」とか思うわけですが、今の人はやっぱり平和がずっと続くと思うから、残しておく動機というものを感じないのかもしれません。逆に言うと平成大合併とか町村合併などで、小学校等の史料など、いろいろ大事だったものが、全部地域で捨てられていたりするのではないかという行政の史料とかが出てくるというのもあります。
明治、大正時代の軍人で、初代朝鮮総督の寺内正毅は有名ですよね。あの方のひ孫さんがリタイアして、おじいちゃん、おばあちゃんのお家を整理しようかということで、相続の遺産整理をすると、寺内正毅文書が新たに出てきました。一番大事なものはむしろ手元にあったんですね。こうやって、娘、孫、ひ孫の世代で出てくるのもあるけれども、やっぱり日本はなかなか出てきません。あと保存されていても、きちんと原本を取って2つずつ作っているか。韓国の公文書館というのは非常に優れていて、必ず2つずつ作っています。
菅沼 そうなんですか。
加藤 これが日本は作られているか、ちょっと疑問ですね。国立公文書館は収蔵数がまだ不十分、少ないので、作っていると思います。ただ国会図書館の憲政資料室などに入っているのは一点物かもしれないと思いますね。
菅沼 デジタル記録などはどうでしょう。
加藤 デジタル、そうですよね。デジタルのものを、世の中に残っているものを最後まで動かしながら使えるようにしておく技術は、結構アメリカ、ドイツが好きなのかな。アメリカの博物館などでは零戦なんかもまだ整備された実機が残っています。日本では私企業がオタクで、パナソニック、東芝にしろシャープにしろソニーにしろ、いろいろ機械を残しておく博物館という形で初発物は残っていますよね。だから逆に残らないのは、汎用のコンピューターとかですよね。一般の人が持っているようなコンピューターのレベルのときの媒体が一番残らないかもしれない。3.5インチのフロッピーなんてありましたよね。そういった媒体で残っている歴史的資料が一番危ないのではないかと思いますね。
菅沼 逆にクラウドなどのようなものになると、取っておこうと思えば取っておけるということですか。
加藤 そうですね。そういうデータは故意に消さない限り残り続けます。今のウクライナなどの映像もそうですが、べリングキャットのような人たちがもらったものをしっかり確認した上で世界に発信する。すると発信されたものはどこかで誰かが保存しています。だから核戦争が起きても、どちらかの陣営の人が保存しているのが残り得るのかなと思います。
ただ私はよく自民党員とか保守の人にわざと危機的なことを言うときに、中国やロシアと日本が敵対するときに、中国やロシアは行政文書なり個人文書なり、日本からすれば不都合で、中国やロシアからすれば都合のいい文書をいくらでも取っておくだろうと。彼らには無尽蔵スペースがあるからですね。日本としては、必ず自分に今都合がよくても都合が悪くても、いわゆる日本の国益というものを将来的にどっちに転んでも担保できるものは全部取っておかないといけないんですよということは言っています。
これは公文書のいわゆる地政学なんですね。結局日本は全てもう負けましたと、ODAは本当にひもが付いていませんでしたかといわれたときに、ちゃんとODAの全ての史料が残っていれば中国に反論できるわけです。だけどそれが全部残ってなければ、中国側がどうせ日本はひも付きで援助してくれた国ですからなどと言ったときに、どう反論するかとか、やっぱり考えておくべきだと思いますね。近代史はやっぱり物量です。だからドキュメントの戦いに、ヘゲモニーの握り合いになると思います。
菅沼 なるほど。
最後に
加藤 菅沼さんとは久々の再会でしたが、一瞬で昔が戻りました。当時の彼女も弁護士会の会長としての彼女も、弁護士法第一条の「基本的人権を擁護し、社会正義を実現」することを使命とし、「誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力」する生き方という点で一貫していると実感しました。法律や制度のもとで生きる人々が構成する社会は変化し続けています。その変化を受けとめて職務に邁進するため、弁護士会の果たす役割には極めて大きいものがあるとお話をしていて確信しました。
菅沼 歴史学者と法律実務家。対談をお願いしたものの話がかみ合うのか、少し心配していましたが、事実をしっかりふまえ専門的知見を活用して説得的な議論を行っていくという共通の土台を確認する機会となりました。それにしても、加藤さんの知識の広さと深さには感服です。その一方で、少女っぽさが変わっていないところが学生時代の友人としては嬉しかったです。弁護士会にいただいたエールをしっかりと受けとめて、引き続き基本的人権の擁護と社会正義の実現のために取り組んでいきます。